島根県立美術館

開館20周年記念展 堀江友聲 京に挑んだ出雲の絵師

2019/4/24-6/3

 「堀江友聲」(1802-1873)という絵師の名は、全国ではほとんど知られていないでしょう。その一方で、島根県東部を中心とした一部の地域では、今日まで熱烈に愛好されてきました。こうした評価の違いが生じた要因の一つに、友聲画の優品の多くが主に個人の間で秘蔵されてきたことが挙げられます。とかく忘却の憂き目に逢いかねない地方絵師の存在は、独自の審美眼をもった地域の人々により、守り伝えられてきました。

 そんな堀江友聲の回顧展としては36年ぶりとなる本展では、友聲が、諸国遊歴を経て京都の名門・海北家の養子となった青年期から、丹後国宮津で勇躍した壮年期、そして出雲国広瀬藩の御用絵師となった晩年期までの各期の代表作を一堂に展示します。友聲がこの地域で何を期待され、どのような戦略で生き抜き、そしてなぜその作品が愛されつづけたのか―地方画壇で確固たる地歩を固めた一人の絵師の実像に迫ります。

堀江友聲
出雲国大東(現在の雲南市大東町)に森山勇兵衛為春の第四子として生まれ、後に母方の堀江家を継ぐ。幼名は善三郎豊信、青年期に雲峯・盛伯と号し、京都で海北家の養子となった折に名を海北斎宮介精一、字を友聲とした。ほかに斧巖・豈楽斎・遷喬などと号す。
 幼少より絵を描くことを好み、文化14年(1817)に京都で山本探淵に師事。また四条派の柴田義董に私淑した。20代で伯耆、備後、美濃など諸国を遊歴し、萩の毛利家で多くの作品を描く。天保元年(1830)、海北友徳の懇請を受けて海北家の養子となり、宮中・社寺の御用を勤めるが、翌年、養子縁組を解消され、出雲へ帰国した。天保七年(1836)からの数年を丹後国宮津で過ごし、宮津藩お抱えの話が挙がるほど当地で高い評価を得ている。

嘉永5年(1852)に広瀬藩九代藩主・松平直諒の下で御用絵師となり、以降は広瀬を中心に活動した。
 友聲は近世島根における数少ない職業画家であり、様々な筆法を駆使して多種多様な画題を手がけた。中でも膨大な数の写生を基にした、緻密な描写と鮮麗な色彩による花鳥画が名高い。横山雲南(後の黄仲祥)・上代英彦ら多くの門人を指導し、堀江家からは養子の友節(2代)以降も有聲(3代)・和聲(4代)と画家を輩出した。

Exhibition Movie

展覧会場の様子を一部ご覧いただけます。

《海棠に鯉・菊に白鷴図》(部分)、《百花群鳥図》(部分)
《春秋花鳥図》(部分)、《牡丹に孔雀図》 (部分)
《群雀図》(部分)いずれも個人蔵
《罌栗に錦雞鳥・雪笹に鴛鴦図》(部分)島根県立美術館蔵
《四季草花図》(部分)島根県立古代出雲歴史博物館(出雲市)蔵