島根県立美術館

第一章

友聲は享和2年(1802)、出雲国大東(現在の雲南市大東町)に生まれた。幼少より絵を描くことを好み、16才で京へ上り、山本探淵に師事した。要法寺の貫主・日晭上人の近習となり、17才の時、「盛伯」の字が与えられた。この時期、狩野派や中国絵画を学び、特に四条派の柴田義董の筆意を慕って、事物の写生を重視したという。
 20代前半には、伯耆国、美濃国など諸国を遊歴しながら研鑽を積み、20代後半には萩の毛利家で多くの作品を描いた。天保元年(1830)、29才の時、海北友徳の懇請を受け、京の名門画派、海北家の養子となる。名を海北斎宮介精一、字を友聲と改め、宮中や寺院の御用を精力的に勤めた。しかし翌年、海北家との間で家督に関する違約が生じ、友聲は京を去り、天保3年、出雲へ帰国した。

第二章

海北家と離縁した友聲は、天保3年(1832)からの約4年を大東で過ごした。この間には松江藩家老三谷家からの画事依頼を受け、藩主斉貴の愛鷹を写すなど、松江藩との関わりがわずかに知られる。この時期に友聲が特に傾注したのが、身近な動植物の写生であった。後に花鳥画家として声名を高める基盤は、この頃に固められたといえる。
 天保7年からの4年を、友聲は丹後国宮津で過ごした。宮津藩家老、当地の寺院や豪商らから相次いで依頼が殺到し、作品に創意溢れる表現が見受けられるなど、充実した時間を過ごしている。宮津藩主松平宗発からも賞美され、天保11年、友聲を藩士として召し抱える命が発せられた。しかしその直後、藩主宗発が急逝。宮津藩お抱えの話は叶わず、友聲は出雲へ帰国した。

第三章

天保11年(1840)、友聲は宮津から大東へ帰国した。この後の約10年間の友聲に関する記録はほとんどなく、友聲の生涯の中でその動向が最も判然としない時期である。一部の作品や画稿類の記載から、大東、大社、平田など、出雲各地での作画活動が断片的に知られている。 
しかし、友聲が最も得意とした緻密な描写と鮮麗な色彩による花鳥画の多くは、この時期の作と考えられる。友聲は、応挙や岸駒のような“京”風の絵画を求める当地の受容者の期待に応え、次第にその声名を高めたのだろう。嘉永4年(1851)、広瀬藩主松平直諒の初めての国入りのための建具類新調の御用を受けた。直諒は友聲の仕事を賞美し、翌年正月、友聲は広瀬藩に御用絵師として召し抱えられた。

第四章

嘉永5年(1852)、友聲は広瀬藩に召し抱えられ、以後は広瀬を中心に活動するようになる。御用絵師としての仕事は、広瀬藩邸や江戸屋敷の障壁画制作、江戸参府土産の団扇絵制作、また藩主直諒への絵画指導など、多岐にわたった。こうした公的な仕事の多くは失われたが、一部が富田八幡宮、巖倉寺、城安寺など広瀬町内の社寺に伝えられている。
この時期の友聲は節または遷喬と号し、現存遺品や記録を見る限り、生涯で最も多くの作品を描いた。友聲はこうした膨大な数の仕事を、養子の友節らを率いて工房として受注したと考えられ、広瀬以外の地域からの作画依頼にも応えている。明治6年(1873)9月15日、友聲は広瀬で72才の生涯を閉じた。墓は広瀬町の誓願寺にある。

Exhibition Movie

展覧会場の様子を一部ご覧いただけます。

《春秋花鳥図》(部分)、《群雀図》(部分)いずれも個人蔵